縁起

壷阪寺は藤原京の聖なるラインの終着地だった

大宝三年(西暦703年)
持統天皇火葬と壷阪寺の創建の年が同じ

壷阪寺は藤原京の中心道路である朱雀大路を拡張した線上の高取山に位置する。
この事実を指摘しているのは『奈良平安時代の宮都と文化』(吉川弘文館1988年刊)に書いてある関西外語大学教授戸田秀典である。

この事実を受けて考察を進めたのが、橿原考古学研究所の泉森皎氏であった。
また、岸俊男氏は藤原京の中軸線上に7〜8世紀の天武・持統陵、中尾山古墳(文武陵)・高松塚古墳・キトラ古墳など、天武朝の皇族に関係する古墳が多く点在しているという説を主張している。
岸説によれば、これを【藤原京の聖なるライン】と呼ぶ。
そして泉森氏はその延長上にある壷阪寺の意味も考える必要があると述べている。

地理的条件だけでなく、時間的な歴史の流れを捉え、壷阪寺はなぜ大宝3年(西暦703年)に創設されたかを考える必要がある。
大宝3年は文武天皇の時代だが、祖母の持統天皇の火葬が執行された年でもある。
日本の火葬の始まりは文武天皇4年3月(西暦700年)、飛鳥寺の道昭という僧侶が最初で、道昭は遣唐使として玄奘三蔵にもあったことのある人物だ。

天皇として初めて火葬になったのは持統天皇。
持統天皇は壬申の乱で有名な天武天皇の妻で、夫婦で合葬されており、歴代の天皇の中でもおしどり夫婦として名高い。
持統天皇は大宝2年(西暦702年)、12月22日に亡くなっている。
天皇等の身分の高い人が亡くなった時はもがりといって1年ほど本葬をする前に遺骸を納めて祀る期間があるので、実際の火葬は1年後の大宝3年(西暦703年)である。
『続日本紀』によれば大宝3年12月17日に飛鳥の村岡で火葬され、26日に天武天皇陵、すなわち大内山陵に合葬されたという記事がみえる。
大宝2年から3年の『続日本紀』は持統天皇が亡くなってから陵に葬るまでのもがりの期間のことと新羅との外交関係の記事が大半を占める。
持統天皇が亡くなってすぐ、大宝3年の正月9日には新羅から弔使(とぶらひつかひ)が来ている。
持統朝、次に跡を継いだ孫の文武朝が新羅国と親密な関係であったことはこの時代に遣唐使がなく、遣新羅使が多いことからもわかる。

【藤原京の聖なるライン】の延長上にある壷阪寺・持統天皇の火葬が大宝3年、壷阪寺の創建が大宝3年。文武・持統天皇と壷阪寺の関係を考える必要があろう。

聖なるラインの地図はこちら

藤原京と新羅・慶州。高取山は南山か

持統天皇の舎利(骨)は飛鳥桧隅大内陵(野口大墓)に天武天皇の遺骸を納めた横に銀の骨壷に入れてあったという記録があるが、鎌倉時代に盗掘にあったようだ。天武・持統天皇合葬陵も【藤原京の聖なるライン】でつながるゾーンに含まれる。

天武・持統朝は古代史上最大の内乱といわれた壬申の乱(西暦672年)以降の約30年間は遣新羅使しかおいていない。朝鮮半島の情勢は新羅が百済を滅ぼし、さらに高句麗を制圧、668年に新羅は朝鮮半島全土を掌握し、統一新羅となる。統一新羅時代の始まりと日本の天武・持統朝の始まりはほぼ同時期なのである。

当時の新羅の都は慶州であり、文化や思想など、日本の藤原京とさまざまなことで影響しあうのは当然である。【藤原京の聖なるライン】があるならば、慶州にもあるではないか。

7世紀、大化の改新時代、日本の皇極・斉明天皇の時代に新羅では善徳女王・真徳女王という女帝が2代続いていた。
この時代に慶州の真南にある自然の山を「南山」と呼び、聖なる山として位置づけ、その地を仏教聖地としたのである。今だに当時の石仏が多く残っている。つまり慶州の王城の真南に仏教聖地と仏教寺院をつくったのである。

高取山は慶州の南山にあたるのではないか。慶州の南山は弥勒信仰で、高取山は観音信仰という信仰上の違いはあるが、これは当時の日本の仏教信仰が観音信仰であったためではないのか。

持統の霊を弔う?

もう一つ考えなければいけないのは、壷阪寺の本堂が八角円堂であることである。
八角円堂といえば、法隆寺の夢殿を思い浮かべる人も多いだろう。夢殿は天平11年(西暦739年)に行信という僧侶が建てたものである。
壷阪寺の開祖と言われる弁基も行信と同じ動機で八角円堂を建てたのではなかろうか。
法隆寺の八角円堂は聖徳太子の廟所であり、行信は太子の霊をなぐさめるために夢殿を建てたのである。
霊廟建築が八角円堂である。他にも八角形の建物として思い浮かべるのは、藤原不比等の廟所として元正天皇が発願した興福寺の北円堂。藤原冬嗣が父・内麻呂のために建てた南円堂。五条の栄山寺円堂も藤原仲麻呂が父智麻呂のために建てたものである。
八角円堂はすべて、誰かの霊をなぐさめるために建てられている。

壷阪寺の八角円堂は、持統天皇の霊を弔うため、弁基が建立したという以外には考えられない。壷阪寺に伝わる『古老伝』に元正天皇が壷阪寺を南法華寺と称して勅願寺にし、長屋王が永代供養することになったという記事がある。元正天皇は持統天皇の孫であり、長屋王も義理の孫にあたる。壷阪寺は祖母の供養のための寺であったのである。

元正天皇

壷阪寺の発掘調査によって本堂の基壇は創建当時から八角形であったことがわかり、そこから出土している瓦は白鳳時代の瓦であり、専門家によるとこの瓦は白鳳時代、藤原京の本薬師寺で使われていた瓦と同じであるという。
本薬師寺は天武天皇が持統天皇が病気になった時、病気平癒を願って発願し、建てられた寺であり、持統天皇と深く関わっているのである。壷阪寺、そして高取山は律令国家の幕開けを築いた天武・持統の夢象徴の可能性が大いにあるのである。


〔元正天皇〕

以上 月刊ならら 2003年6月号より。